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みんなの「札幌」ブログ


早春の札幌・大通公園(昭和45年4月下旬)

2009/03/05 09:41


 このWeblogに附属している「アクセスレポート」を見ると、「札幌 昭和 写真」のキーワードで検索されて来られる方がかなり居られる。しかし、これまで札幌の町の風景は殆ど紹介していなかった。「北大構内の雪景色」は大学構内しか写っていないし、「大雪の日のササラ電車とササラ気動車」は雪が濃すぎてササラ電車以外は極めて不明瞭である。また、「札幌管区気象台・記録史上降雪量最大の日」では裏通りにある下宿の付近しか写していない。唯一町の風景が写っているのは「お知らせ+雪の札幌」だが、この写真はオマケで付けた様なもので、たったの2枚。

 しかし、私自身は当時札幌に住んでいたのだから、札幌市内の写真は当然沢山ある。そこで今日は、まずネガの最初の方にある昭和45年の4月下旬撮影の大通公園を掲載することにした。

 正確な日付は分からない。ネガの順序から行くと、ネガケースの18番に「45年4月18日、旭山公園」とあり、今日の写真はそれに続く19番のネガケースの最初の部分で、日付は「昭和45年4〜5月」とあるから、4月19〜30日の何れかと言うことになる。「気象庁 過去の気象データ検索」に拠れば、昭和45年4月19日以降で日照時間が10時間を超える日は7日もあるので、天候から正確な日付を特定することは出来なかった。


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昭和45年早春(4月下旬)の札幌大通公園

学生服姿は当時でも既に少なかった

北海道拓殖銀行の看板が見えるが今はない

(クリックで拡大表示、以下同じ)

(S45/4月下旬)

 最初の写真は、左上に今は無き北海道拓殖銀行の看板があり、その手前に更にビルが2つあることから、5丁目の大通りから東北東方向を撮影したのもと思われる。学生服を着た大学生が2人歩いている。当時、既に大学で学生服を着ている人は少なかった。学ラン(学生服)を着ていたのは応援団位なものかと思うが、応援団にしては服装が綺麗すぎる。尤も、北大応援団の猛者は、(汚れた)和服に朴歯(大きな下駄)で、下駄禁止の建物内では、両手に朴歯を片方ずつ持って、裸足で歩いていた。

 画面中央左に見える木々の枝が、妙に色濃い。もう芽がかなり膨らんで来たのであろうか。

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早春の陽光を浴びる2人連れ.この時期、風はまだ冷たい

(S45/4月下旬)

 次は、後に農林中央金庫の看板が見えるので、最初の写真とほぼ同じ位置から北西方向を撮ったものであろう。アベックが1組写っている。こう言う写真を出すと、或いは、家庭騒動が起こるかも知れないが、もう40年前のこと、笑って済ませるベシ。

 この写真もそうだが、今日の写真は全て中間的な階調に乏しく、建物の壁や地面が殆ど真っ白に近くなっていた。実際、この時期ではそう言う写真になるのかも知れないが、何となく不自然に感じられたので、トーンカーブをいじくって、中間的な階調が出る様に調整してある。

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噴水の縁に座る人々.背景のタイムス観光は今はない

(S45/4月下旬)

 この写真は、最初の写真の中央に見える噴水の一部である。左側の女の子は、最初の写真の中央下側にも小さく写っている。中々素敵な感じの人である。しかし、今ではもう60歳位の・・・。

 子供とその祖父らしき人が犬を見ている。この時代、まだ野良犬がこんな町中に居たのか些か疑問だが、やはりこれは野良犬であろう。北大の構内には、医学部の実験動物の檻から逃げ出したと言われる野良犬が沢山いた。食べ残しを貰いに学生食堂に出入りする犬も多く、中にはマジックインキで眼鏡の模様を描かれたり、その他色々なイタズラをされた犬が居た。

 後に北大生と思しき学生が3人写っている。北大生には、一目で北大生だと分かるのである。同様に、他の旧帝大の学生も見分けることが出来た。不思議な感覚である。

 更にその後に「タイムス観光」の看板が見える。昔の地図を見てみると、平成10年9月2日に廃刊した(Wikipediaに拠る)北海タイムスの位置に相当するので、同社の系列会社なのであろう。調べてみると、ロシアへの旅行などを斡旋していた会社らしい。


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上の写真の右側.小父さん2人に幼児.女気がないのは何故?

(S45/4月下旬)

 次は、その直ぐ右側を撮ったもの。先のお祖父さん(お父さん?)が、孫?ともう1人の同年配のオジサンと一緒にいる。オジサン2人と子供だけで、女気がまるでないのはどういう訳であろうか。

 後に途切れとぎれだが「タイムス食堂」の看板が見える。北海タイムスの並びにあり、同社の社員食堂を兼ねていたらしい。

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大通公園で集会を開く全共闘

(S45/4月下旬)

 さて、この辺りから些か問題ある写真となる。ヘルメットにマフラーで顔を隠している人がいるので、これは全共闘の集会であろう。天気が良いので、大学から此処まで脚を伸ばして来たものと思われる。私自身は大学紛争に全く興味がなかったので、どの会派か全く分からない(実は、全共闘の正確な定義も知らない)。

 会派によってヘルメットの色が違っていた。調べてみると、白ヘルは中核、白ヘルに黒い縁取りが革マル、青ヘルは反帝学評、ノンセクトラディカルは赤ヘルで、これに対抗する共産党下部組織の民青は黄ヘル、その他黒ヘルもあった筈である。

 その後に、彼らを不安げに見返る子供連れのお母さんとお祖母さんらしき人が見える。もう全共闘のバリケードで「開放区」とされた大学も機動隊によって開放されたいたが、まだ、学生運動は続いていた。しかし、彼らが期待していたらしい市民の心は、既に彼らから離れていた。

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民青系の集会かと思ったが定かでない

(S45/4月下旬)

 最後の写真も学生運動の集会。左に子供の姿が見えるし、顔付きから民青系の集会と思ったが、濃い色のヘルメットが写っているので、何処の会派か分からなくなった。

 中には、顔がかなりハッキリ写っている人もいる。昔はこんな活動をしていたと知られるとヤバイ御仁も居られるかと思うが、御安心あれ、何せ40年前の写真、他人の空似に相違あるまい。


記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 8 / トラックバック 0 / コメント 2


札幌管区気象台・記録史上降雪量最大の日(昭和45年1月31日)

2009/02/08 12:42


 このWeblogの事実上の第1回目は「北海道国鉄全線乗車計画」(その1)で、主に札幌から石狩沼田までの車窓の風景を掲載した。その際、札沼線の新十津川〜石狩沼田間が北海道国鉄の中で最も早い時期(昭和47年6月19日:Wikipediaに拠る)に廃止された理由の一つとして、昭和45年1月31日の大雪+大雨による線路の凍結(除雪不可能となり春の融雪期まで不通のまま放置された。詳しくは上記ページを参照されたい)があるのではないか、と書いた。

 その大雪の日に下宿の周りの雪景色を撮った写真が数コマあるので何時か掲載しようと思っていたのだが、ネガの傷み、特に黴が酷く躊躇していた。先日、新しい方法により黴をかなりの程度除去することに成功したのと、札幌に於ける1日の最大降雪量を調べてみたら、何と、この昭和45年1月31日が札幌管区気象台観測史上最大の降雪量(深さ)を記録した日であることが分かったので、急遽、この写真を掲載することにした。なお、1日の降雪量の記録を取るようになったのは昭和28年(1953年)1月からの様で、気温や降水量などの記録と較べると、ずっと最近になってから開始している。

 気象庁の「過去の気象データ検索」で調べると、この1月31日1日の降雪量は63cm、雨量は59.5mm、最深積雪は98cmとなっている。この雨量とは、雪を溶かして水にした分と雨が降った量との合計である。この日は朝から大雪で、後に大雨に変じ、深夜になってからは風も強くなって横殴りの雨が下宿の壁を叩いていたのを憶えている(2月1日の最大風速17.1m/s)。雪が解けて水になればかなり量が減るので、積雪量が63cmで雨量が59.5mmと余り差が無いと言うことは、かなりの雨が降ったことを意味しており、記憶と一致する。次の2月1日の記録を見ると、積雪量は0、降雨量は僅か1mmなので、雨は少なくとも朝までには止んでいたと思われる。

 因みに、降雪量が多かった日の2番目は平成13年(2001年)12月10日の56cm、3番目は平成12年(2000年)2月25日の同じく56cmである。60cmを越えているのはこの昭和45年1月31日だけであった。


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札幌管区気象台・記録史上降雪量最大の日

南11条西17丁目の裏通り=下宿の前にある通り

(クリックで拡大表示、以下同じ)

(S45/01/31)

 これらの写真は、或いは、次の日に撮ったのではないかと思っていたが、3番目と5番目の写真には雨滴かみぞれと思われる跡が写っている。朝までには雨は止んでいたらしいので、1月31日当日に雪から雨に変わったところで撮ったのであろう。雪の降っている間は、カメラを構える僅か1〜2秒でもうカメラが雪ダルマになってしまう様な凄い降り方で、写真を撮るのは殆ど不可能であったと記憶している。

 下宿は南11条西17丁目の裏通りにあった。上は、その下宿前の裏通りを撮ったものである。この裏通りは、雪がなければ車が充分入れる程度の幅があったが、雪で埋まって人1人が漸く通れる程度の幅になってしまっている。小学生らしき女の子が写っている。その身長と積雪量を比較すれば、どの程度の大雪であったか分かるであろう。

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南11条通りから裏通りへの入り口

露出不足を無理矢理補ったので荒れている

(S45/01/31)

 次の写真は、南11条通りからその裏通りに入る細道。殆ど雪で埋まっている。フレームが少し斜めになっているが、補正しないでその儘掲載することにした。雪が多くて周りが全面真っ白だと平衡感覚が狂うことがあるが、家が写っているからそのせいではないであろう。

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南11条通りに面した家々の裏側

(S45/01/31)

 上の写真は、その前の写真の右側辺りを反対側から撮ったものではないかと思われる。これもフレームが傾いている。手前の雪の固まりは、屋根から落ちて道を塞いだ雪を積み上げたものであろう。

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下宿の庭(S45/01/31)

 最後の2枚は、下宿で撮った写真。上は、1階の廊下の突き当たりにある戸を開けて、その庭を撮ったもの。積もった雪で容易に戸が開かなかった、と言う微かな記憶がある。左手に写っている建物は、何処かの会社の倉庫か何かで、屋根の上にシッカリ雪が積もっているのが見える。

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下宿の自分の部屋から撮った隣家

(S45/01/31)

 最後の写真は、下宿の私の部屋から隣家を撮ったもの。雨かみぞれの跡が写っている。煤けた下見板と暖炉の煙突は、如何にも昔の北海道の家と言う感じで、懐かしさを感じさせる。

 屋根から落ちてきた雪が部屋の窓の高さに達しているのが分かる。その後、この年の雪は部屋の窓の上端を越える高さに達し、下宿のオジサンが窓の前の雪を四角く掘って、明かりが入る様にしてくれたのを憶えている。


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大雪の日のササラ電車とササラ気動車(札幌市電:昭和45年3月)

2009/01/02 11:45


 昨年はすっかり更新をサボってしまった。今年は少しは真面目にやろうと言うことで、正月から書き込みをすることにした。

 昭和45年3月のある雪の日に出動したササラ電車とササラ気動車の写真である。表題には「大雪の日」と書いたが、本当に大雪であったか否かは分からない。雪は非常に濃いが、此処に掲載していないその後の写真を見ても、新雪はまだ10cm程度しかなく、この雪がその後も続いて大雪になったかは不明である。気象庁の「過去の気象データ検索 」で1970年3月を調べると、積雪が10cmを越えた日は4日もあるので、その内の何れの日かを決めるのは無理な様である。


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激しい降雪の中、鉄北線を除雪するササラ電車

(クリックで拡大表示、以下同じ)

(S45/03)

 撮影したのは、何れも札幌市電鉄北線の北大正門前と北大病院前の間だと思うが、或いは、北18条の近くであったかも知れない。地下鉄が出来たのは昭和46年12月なので、まだ鉄北の交通機関の中心が市電であった時代である。

 最初の写真は、大学側から北東方向を撮っていると思われる。電車は北から南に走っていることになる。降雪の密度は非常に濃く、写真の上の方に薄黒くぼやけて写っているのは雪片である。

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接近したササラ電車.後に「とりげん」の看板が見える

(S45/03)

 次の写真は、同じササラ電車が近づいたところであろう。後に「とりげん」の看板が見える。今、「札幌 とりげん」で検索すると、北9条通りに面して「とりげん」と言う店がある。電車通りから北大正門近くに移ったのかも知れない。

 ところで、この「ササラ電車」の名前だが、当時この様な言い方はしていなかったと思う。ブラッシ電車とか、ロータリー電車などと呼んでいた様な気がするのだが、これも定かでない。

 ササラ電車についてはWikipediaにかなり詳しく書かれている。それに拠ると、正式名称は「ロータリーブルーム式電動除雪車」で、1915年(大正4年)に札幌電気軌道(札幌市電の前身)の技師長、助川貞利が台所用品のササラをヒントに開発したのだそうである。そんなに昔からあったとは知らなかった。

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ササラ電車のササラ駆動部分

(S45/03)

 同Wikipediaに拠ると、札幌市電のササラ電車には雪1号と雪10号の2形式があるとのこと。しかし、このササラ電車の形式がその何れなのかよく分からない。上の写真は、写真としては全く面白味に欠けるが、御蔵にして置いても意味がないので、掲載することにした。何らかの参考になれば幸いである。

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北大の横を除雪するササラ電車.後部にも「ササラ」がある

(S45/03)

 次の写真は通り過ぎた後である。その前の写真の次のコマなので、「とりげん」の前を走っていた電車の通り過ぎた姿かと思ったが、背景を見ると方向が逆である。上のとは別のササラ電車で、反対に南から北へ向かっているものと思われる。

 後ろ側にも回転していない「ササラ」が見える。市電の終点駅にはターンテーブル(転車台)は無かったから、電車の前後にササラを付ける必要があったのであろう。

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ササラ気動車が接近.車が慌てて避けている

(S45/03)

 次の2枚はササラ気動車。Wikipediaに拠れば、DSB1形と言う形式で、「ディーゼル・スノー・ブルーム」の略だそうである。現在は使用されて居らず、札幌市交通資料館に1両が保存されているだけとのこと。

 当時は、まだディーゼルの「市電」があった。かつて札幌市電には非電化区間があり、そこを走る為に作られたものだそうである。その区間を除雪するには、当然ディーゼルのササラ気動車が必要だった訳である。ディーゼル「市電」の写真は、別に撮った記憶があるので、その内出て来るかも知れない。

 上の写真を見ると、横を走っている車が慌てて横に避けているのがわかる。ササラ電車(気動車)と平行して走ると、多量の雪を被って前が見えなくなり、非常に危険なのである。後からササラ電車(気動車)がやって来るのが見えると、車は速度を落として横に寄り、電車(気動車)をやり過ごすのである。

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ササラ気動車.固まった雪も跳ね飛ばしている

(S45/03)

 今日最後の写真は接近したササラ気動車。中々景気よく、固まった雪も跳ね飛ばしているのが分かる。

 「ササラ気動車」でGoogle検索しても、駆動中のササラ気動車の写真は見つからなかった。案外、貴重な映像なのかも知れない。


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北大構内の雪景色(昭和45年2月上旬)

2008/09/06 19:34


 今回は38年半前の北大(北海道大学)構内の写真を出すことにする。日付は正確には分からないが、昭和45年の2月上旬、冬景色である。

 ネガ番号は5番。北海道での最初期の写真と言うことになる。写真は中学の時からやっていたが、雲や星の写真ばかり撮って、普通の写真は殆ど撮っていなかった。だから、この大学構内の写真も、何となく絵葉書的と言うか、観光客が撮る様な写真になっている。しかし、それには別の理由もある。

 入学は昭和44年なので、普通に考えれば、既に1年近く大学に通っていたことになる。しかし、実際は昭和44年の6月28日から11月8日迄教養部が全共闘により封鎖されており、授業が再開されたのは45年の1月から。しかも、封鎖に至る2ヶ月位前から、実質的には授業が無かったので(討論の様なことをしていたらしい)大学には殆ど通っていなかったし、8月からは東京へ帰っていた。札幌に戻ったのは1月、そこで生まれて初めて見る根雪の風景である。多少とも観光客的な写真になるのも、致し方ないと言える。


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理学部の角を西に曲り、振り返って撮影(クリックで拡大表示、以下同じ)

(S45/02/上旬)

 最初の写真は、大学を南北に抜ける大通りを、有名なポプラ並木の方へ、理学部の横を西に曲がった所から、振り返って大通りの方(東)を撮ったもの。左側にポプラが何本か見えるが、これをポプラ並木と勘違いする観光客も居た。

 正面の建物が何であったか分からない。この区画は文系の領域なので、私の様な理系の人間には縁のない施設であったと思う。

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理学部の赤煉瓦校舎の前から南を望む(S45/02/上旬)

 次は、最初の写真に見える(不明瞭だが)南北の大通りを右に曲がって直ぐの所から、クラーク会館の方(南)を撮ってある。右側にハルニレの樹が沢山写っているが、これは理学部の古い赤煉瓦の建物(生物系、地質系など)の前に植えられているものである。

 画面左端は、確か、軍艦講堂と呼ばれていた文学部の共同講義棟だと思う。これも文系の施設なので、よくは知らない。大学紛争時には、軍艦講堂で色々集会が開かれていたので名前は知っているが、行ったことがないので、どの建物なのか分からないのである。

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右は薬学部、左は工学部.イチョウ並木は少し先の右側

(S45/02/上旬)

 次は道を戻って、最初の写真に見えるポプラの前を通り、小さな橋を渡った所で、教養部(北)の方向を撮ったもの。右側が薬学部、左は工学部である。

 こう言う写真を見ると、当時、クラーク会館から教養部まで約1kmを毎日の様に歩いていたのを想い出す。北に向かって1km、吹雪の日などは辛いものがあった。構内バスを走らせるという話は当時からあったと思うが、今ではそれが実現して構内循環バスが走っている。しかし、北大のホームページによると、「学生・大学院生は,研究業務で学内移動する場合・ケガをして歩行困難等の場合は乗車できます。しかしながら,クラブ活動の行き帰り・授業時間帯の移動・通学時の移動を目的とした乗車はご遠慮願います」とあるので、やはり殆どの場合は歩かなくてはならないことになる。

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北大のイチョウ並木(S45/02/上旬)

 イチョウ並木は東大の専売特許ではない。しかし、北12条から北大工学部へ通ずるイチョウ並木は、当時はまだ樹が大きくなかった。今ではかなりの貫禄が出ていると思うが、イチョウは基本的に北方の樹ではないので、大通公園のケヤキと同じく、樹高が伸びないのではないかと思う。

 左端に「無実の村上国治を即時釈放せよ」とのビラが見える。村上国治は、昭和27年の白鳥事件の首謀者として昭和38年10月に最高裁で懲役20年を言い渡された日本共産党札幌委員会の元委員長である。真相は知らないが、当時、この手のビラをよく見かけた。当時は、中核、革マル、ブンドなどの反日共系、民青(共産党)、更に右翼までもが様々なアジビラ(agitation bill)を至る所に貼っていたのである。

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大通りの工学部北よりから南を望む(S45/02/上旬)

 今日最後は、南北の大通りをもう少し北へ行ってから、振り返って南の方を撮った写真。やや遠く、中央の右に見えるハルニレの樹は、3枚目の写真の右手に写っている大きな樹と同一である。左側は医学部で、右は工学部。


 現在の北大構内がどうなっているかは全く知らない。余り変わっていなくても大して驚かないが、自動車だけは間違いなくこの当時のものとは違っているだろう。これらの写真を見て真っ先に思ったのは、そのことであった。


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お知らせ+雪の札幌(C57、市電:昭和46年3月)

2008/03/09 14:53


 今週なかばから海外に長期出張をすることになった。掲載を楽しみにされている方々には真に申し訳ないが、こればかりは何とも致し方ない。

 出発までに「北海道国鉄全線乗車計画」をもう1回分掲載しようと思っていたのだが時間が無い。C62の写真も調整が出来ていない。そこで、既に調整済みの昭和46年3月に撮った札幌の町の風景を出すことにした。町の風景と言っても、蒸気機関車と市電が写っているから、これも鉄道写真の1種と言える。

 正確な日付は分からない。ネガの位置から見ると、3月9日に撮影した「冬の興浜南線を走るディーゼルカー」と3月14日の「塩谷−蘭島間を驀進する急行ニセコ1号:C62−2号機/15号機」の間にある。9日は北見枝幸に泊まった筈なので、10日丸一杯かけて札幌に帰ったとして、11〜13日になる。「気象庁 過去の気象データ検索」で調べてみたが、12日と13日の両日に降雪が若干あり、何れの日かは決められなかった。


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道庁北の踏切を通過するC57−単機

(クリックで拡大表示、以下同じ)

(S46/03/1?)

 撮影場所は、北大の正門とクラーク会館との間にある通称「北大裏門」を真っ直ぐ南に下った所である。古い道庁の建物が正面に見えるので、間違うことは有り得ない。

 この頃、確か夕方15時頃に、千歳方面からやって来るC57の牽引する列車(旅客か貨物か憶えていない)があった。その機関車は札幌駅で単機となり、写真の右手へ(桑園の方向)1つか2つ先の踏切まで行ってから、折り返して札幌駅の別のホームに入るのであった。

 写真は丁度折り返してくるところ。この間、この辺りの踏切は何れも締まったままで、何時もかなりの渋滞を生じていた。

 写真中央左、線路の向こうに「全国信用金庫連合会」の看板が見える。今では「信金中央金庫」と称しているらしい。線路の手前左側には殆ど何も写っていないが、新しい地図を見てみると、何と、この一画は全部がヨドバシカメラになっている。些かビックリである。

 昭和45〜48年当時、札幌のカメラ屋と言えば、「イシオ」であった。ニコンFを25%引きで売ってくれる(ただし数は少ない)全国的に稀な店でもあった。今、調べてみると、まだ「カメラのイシオ」は健在の様である。但し、中古カメラが中心の店になっているらしい。、

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札幌駅前から南を望む(S46/03/1?)

 次の写真は、札幌駅前から南側を撮ったもの。場所は1番目の写真の直ぐ近くだから、その数分後に撮影したものであろう。

 私は当時南11条西17丁目に住んでいたので、通学には市電を利用していた。渋滞でイライラすることが多かったが、まァ、思い出のある乗り物の一つと言える。


 それでは、これから約2ヶ月、掲載を中断することになる。春近しと雖も、3月は時に大雪が降ることもある。皆様におかれては、何卒御自愛の程を!!


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